愛とは、継続的な実践だ。
心ではない。
行動だ。
愛がなんなのか、分からなかった。
皆、愛について語るときは、夢のような理想を述べる。
具体的に愛とはなんなのか、よく分からない。
だから、愛についての本を沢山読んでも腑に落ちなかった。
子供を大切にして、愛は実践だと気付いた。
毎日何十回も愛していると伝えて、割れ物のように大切に扱って、常に自分よりも優先して。
それをしばらく続けて、これが愛だと腑に落ちた。
気まぐれに抱きしめたり、気まぐれに愛を伝えることは愛じゃない。
最近までは、相手を思うことそのものが愛だと思っていたけれど、思うことも愛じゃない。
毎日、対象を自分より大切に扱い、案じ、対象のために精一杯を尽くす。
それだけが愛だ。
そして、自分より他のものを大切に扱うことが不幸かと言ったら全く違って。
愛することで、自分をも大切に扱うことが出来るようになった。
何よりも、何かを愛することそのものが幸せだと気付いた。
体調悪い時に、息子が何時間もずっと大泣きして手が付けられなくて、眠れなくても。
オムツ変えてすぐに、またウンコしても。
手が掛かれば掛かるほど、より愛の実践が出来る。
愛することで、かつてない充足感を感じる。
乾きがなくなる。
愛の対象は、人でなくても、趣味でも仕事でもいい。
自分よりも大切に丁寧に手をかけて扱い、それを弛まずに続けることができたら、それが愛だ。
情熱とも言う。
人生の目的とは、何かを成すことでなく、何かに成ることでもなく、何かを果たすことでもない。
愛することだ。
成すとか成るとか果たすとか、愛した結果でしかないし、愛のない成す成る果たすほど薄っぺらいハリボテはない。
これまで、何を成しても、どこか腑に落ちない感覚があった。
何をどうやっても、私には何か欠けてる、寂しい、ハリボテだ、と思っていた。
何に対しても愛がほんの少しも無かったからだ。
一つでも何かを大切に扱おうと思ったことがなかった。
モノも人も自分も、全部を粗雑に扱っていた。
愛は才能でない。
上手いとか下手はない。
ただ、対象を継続的に大切に扱う、という実践のみだ。
行動と継続性だけあればいい。
行動の裏に感情は無くていい。
ロマンティックなものでなくて、現実に即している。
愛し方を知って居る人間は強い。
愛とは、出来得る限りの実践であり、それは外から揺らがないものだから。
人にどう思われようが関係ない。
対象にすらどう思われようが関係ない。
邪魔が入ろうが、自分の中で決めて、ただ実践を続けるだけだ。
そして愛は多くなくていい。
対象が一つあれば十分だ。
私には息子だけだが。
派生して、息子の前で息子が誇れる幸せな母で居ることが実践で。
旦那や周りの人と良い関係を築き、子供の安心できる居場所を増やすことも実践で。
間違いを教えないよう、知識を蓄えることも実践で。
愛は行動の源になる。
愛を教えてくれてありがとうな、息子。
そして、願わくば何かを愛することのできる人間になれよ、息子。
以上、哲学回でした。