愛されない人間、誰にも愛される素養のない人間はそれだけで罪だと思う。
文章に攻撃性のある作家というのは、大概が私生活で満たされないものである。
例えば川端康成は酷い男尊女卑であるが、親を若いうちに亡くし、鬱屈した中で見つけた愛した女にも愛されなかった。
そして、攻撃性のある芸能人も同じように、親からまともに愛されなかったものが多い。
誰からも愛されないことは、そのまま他人を拒絶することに繋がる。
特定の集合の一部に愛されないことは、そのままその集合全てを拒絶することに繋がる。
愛されないが故に、自分も人を愛さないと決め込み、そうして人を傷つけながら自分を守る。
愛される人間は逆に徳である。
愛される人間は他人に与えることができる。
根源から親に愛された作家は、深いテーマを描いていても印象として明るいことが多く、読み手に考える余地与えても心の陰や闇を強く与えることはない。
日常においても、愛される人間、愛されている人間は目立つことは少ないが、人を拒絶せず、意図せずも人を包み込む。
なんでこんな話をするかって、最近、羽生結弦さんが離婚したからだ。
そして、これは愛されない人間の罪であると考えるからだ。
メディアが勝手に羽生さんの妻の本名や私生活を赤裸々に伝え、それに乗じて不幸で愛されない女たちが彼らを酷く誹謗中傷したらしい。
愛されない人間は愛される人間に強い憎悪を抱く。
愛されない人間は自分を愛さない人間にも強い憎悪を抱く。
それが行動になると、幸せな人間、本来愛されて幸せになるはずの人間をを不幸にする。
だから、愛されないというのは罪である。
私も愛されなかったから、母親という存在を根底で憎んでいる。
他人の母親まで心のどこかで恨んでいる。
それは態度にも出るため、母親と名の付く存在をほんの少しずつ傷つけて生きている。
母親に愛されなかったという生まれ持った罪を抱えて生きている。
罪は罰でもある。
愛されない罪は、愛せない罰だ。
罪も罰もどちらも抱えながら生きるしかない。
解決はしない。
願わくば、少しでも恨みを忘れ、次世代に背負わせる罪を軽減できたら良いなと思う。