エッセイサイトで不採用になったやつの供養。
ボツ理由考察:
朝日新聞のエッセイサイトで、政治に言いたいこと!みたいなテーマだったので、現天皇制に言及したのは過激だったんだろう。
あと、エッセイでないし提言な気もする。
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日本人が不幸なのって、幸福でない訳でなくて、幸福であると口に出して言うことが不正解だからじゃない?
沢山の人で幸せになっても、一人でも取り残される人がいるなら、みんなで不幸になりたい性質なのかも。
そうやって、不幸者同士で群れる必要があったんだろう。
そして、みんなが不幸な中で幸せだと公言すると妬まれるし。
日本ってそうなのはなんでかなぁ。
逆に、幸せだと言える国は日本と何が違うんだろう。
例えば、ブータンとか。
自分が不幸であるという不幸因子を探す必要がないというのはどういう感覚なんだろう。
ブータンは、国王が「国民総幸福量」を掲げて、幸せで居ることが求められてる国らしい。
だから、幸せって口に出すのが、幸せになるのが「正解」だから幸せなのかなぁ。
あと、ある種鎖国的だから、比べる対象である別の国や、多くの他人を知らないのかなぁとか。
何はともあれ、国王に自分達の幸せを願われている国ってちょっと羨ましいし、それを願える国王も素敵よね。
ブータン以外だとどうかな、北欧とか。
北欧の拠り所ってなんだろうな。
調べると、プロテスタントが多いらしい。
プロテスタントは、平たく言うと、偶像崇拝や拝金主義を禁じているため、聖書が拠り所のキリスト教徒だ。
間違ってたらごめんなさいね。
聖書どこでも手に入るし、誰もが神からの等しい福音を与えられている。
お布施の量に関わらず、みんなが等しく神から幸せを願われているみたいな感じなのかなぁ。
だから、幸せになることにも、幸せと口に出すことも、どちらも抵抗ないんだろうなぁ。
やっぱり、神や王みたいな拠り所が無いと、そこから幸せを願われて居ないと、幸せを目指せないのが人間なんだろうなぁって思っちゃった。
ということで、神も仏も居ないと思うけど、近所の神社で社に感謝を伝えてみた。
あんまり変わらなかった。
だって、神社側から幸せになって欲しいなんて願われてないからね。
なんとなく神聖な空気に癒されて終わった。
私も誰かに幸せを願われたい。
多分、私以外の日本人も、みんなそうやって、幸せを願われたくてさまよってるんだろうなぁ。
幸せ難民なんだが。
日本は、どうしたら良いのかな。
自分でなんとか出来る問題でないし。
たとえば、ブータンの王みたいに、天皇が健やかに過ごしてて、国民に幸せで居ることをはっきり望んだら、自分の不幸探しする人間多少は減るのかも。
って考えたら、これまでの歴史で、全部天皇に頼ってきた分、現天皇が少し可哀想なことになってる日本で、日本人は幸せを感じられないのかもなぁ。
天皇を解き放て。
とか言うけど、別に天皇じゃなくても、遠くまで届けば、幸せを願うのなんて誰でも良いんだから。
みんなが幸せって言ったり、自分の幸せを目指しても、恥ずかしくないように、国民みんなが幸せになることを国のトップの人たちが常に願っていて欲しいし、トップの人たちがそれを伝える国になったら嬉しいなぁ。
もう、口だけでも言わないよりマシなんだからさ。
硬っ苦しいこと長々と並べてないでさ。
総理大臣も天皇も偉い人みんな、「みんなで一緒に幸せになろうよ」って言いなさいよ。
国民総動員ならぬ国民総幸福。