前置きとして、コロナの怖さを感じた方は不快な内容かもしれないので、ブラウザバックをオススメする。
私はコロナが怖いと思ったことがない。
こちら側の人は沢山居たと思うし、コロナが怖い人にどう接すれば良いか正解が分からなかったから、あちら側の恐怖心を煽るだけ煽り着地点を示さないメディアに辟易していた。否、している。
こちらとあちらを分断したのはコロナでなく無責任なテレビメディアだと感じる。
最初から、というか、コロナが日本に入ってきたくらいからこいつは何年も続くだろうなと思った。
感染リスクの高さや重症化率の低さから、収まることは向こう5年以上無いだろうし、ワクチンや薬ができて、いずれはインフルのような扱いになっていくだろうし、そう考えるのが自然で一般的だと思っていた。
広がるのは仕方ないし、もし私がかかって、重症化して淘汰されたらそれは自然なことで、高齢者に広がって淘汰されてもそれも自然のことと思っていた。
コロナに対して恐怖心というものが全く無かったし、ただの自然現象だと感じていた。
誰より早く実験台としてコロナを体験したいとすら思っていた。
冒険心探究心の強く、未知への恐怖を感じにくい人はみんなそうだったと思う。
コロナの死者は、もうすぐ死にそうな人や免疫的に弱い人が少し早めに死んでるだけだろう、人口比1%未満の死者なら正常な自然の淘汰の範囲内で、何の問題もないと思ってた。
身近な人間が死んだら感情的になるかもしれんが、誰のせいでもない。
コロナの蔓延より経済活動が止まる方が怖いと思っていた。東日本から日本は止まってるのに、ここで動けないと今度こそ日本は終わりと思ってた。
そして、子供達のお喋りや社会参加が阻害されコミュニケーションの拙い世代が生まれることの方が恐ろしいと思っていた。
コロナというウイルスそのものの怖さが理解出来なかった。
かと言って、世論的にコロナ怖い人にある程度合わせた方が良いのかなとも感じていたので、コロナはただの風邪デモや反ワクとかもあまり理解できなかった。
親は「ワクチン打つな!」としきりに電話を掛けて来たが、ワクチンは体感したかったので打った。
医療機関の麻痺も自然の成り行きだと思ってた。
それとは別で、誰かが困っているなら手伝えることがあれば手伝いたいと思っていた。
そして、最低限手洗いとマスクとワクチンだけはしていた。
でも、ワクチン打たない人も、マスクしない人も、飲み歩く人も旅行する人も、それはそれで個人の自由で、それを見て不快になるならないも個人の自由だと思っていた。
そんな個人の自由が無いと潰れるお店や宿が沢山あるから、近場での経済活動は積極的にした方が良いとすら思ってた。
敏感な人が近くに居なかったら、近場の旅行も外食もむしろ積極的にしていたと思う。
結局マスクによる酸欠と、人に会えないストレスで毎日のように倒れて仕事にならなくなって職を追われたような形になったし、マスクもしなくて良かったかなと思ったりする。
コロナを過度に怖がる人の思考回路も理解は出来るけど、共感は出来なかった。
寄り添いたいとは思っていたけれど、どこまで寄り添うべきか線引きが無かった。
社会がある程度、ここまではOKとか決めてくれたら良かったんだけど、それも無いから、無限に合わせる必要が出てきて。
恐怖心を持つ人は苦しいのかもしれない。
でも、どうなったら良いのか、どうしたら良いのか、怖がる側に決めてもらえないと、終わりの見えない時間を際限の見えない配慮をし続けるのも苦しいのを分かって欲しかった。
怖がる側に、線引きして欲しい、どこまですれば安心できるか分からないからちゃんと教えてって伝えても、見えないものへの恐怖心と戦ってる人にその線引きが出来るわけもなくて。
結局まともな話すら出来なくて平行線で。
だから、途中から、感覚近い人同士でしかもう交流できないわ…って。
怖い人は怖い人同士でしか分からない世界がある。
今はもう、マスクもしなくて良くなって、コロナもインフルと同じ扱いになった。
あの分断がなければ、全然別の人生だったかもしれんなぁと思う。
未知への恐怖がある人は、冒険心探究心で無駄なリスクを犯す人間を馬鹿だと思うだろうし、こういう場合は危険分子だと思って攻撃するだろう。
それも自然なことだと思う。
コロナを通して、私はリターンに見合わないリスクがあっても色んなところに飛び込みたいと思うし、それを誰にも止められたくないことに気が付いた。
コロナがあって良かったのかもしれない。
恐怖心は攻撃になることも嫌というほど知った。
またコロナみたいなことがあったら、今度は感情に訴えるのが目的の恐怖心や対立を煽る報道はやめて欲しいし、データと具体的な事実だけを淡々と報道して欲しいなと切に思う。