ゆかり徒然日記

鬱病から引きこもりにランクアップしたアラサーのブログ。

自己需要感

自己肯定感と色んなところで散々言われている昨今。

自己肯定ってちょっとボヤけてるよね。

そんな簡単に自分肯定とか出来ないっつの。


自分の存在を肯定とか言われても出来ない人の方が多いはず。

私もそうだし。

自分を肯定することは、自分に価値がある、即ち需要があると感じることから始まると思う。

人はどこにも自分の需要が無いと感じて自己否定に入るし、どこかに自分の需要があると感じる人は、自分を肯定出来る。


だから、自己肯定感≒自己需要感。


世の中自己需要感を満たせない人なんてごまんと居るが、大きく分けると二つパターンがある。


自分の需要を過小評価しがちなパターンってのが一つ。

もう一つは需要が本当に人より明らかに少ないパターン。

例えば知的や精神や身体に障害があるとか。


前者が多いんだけど、後者もまぁまぁ居る。


自己需要を過小評価しがちな人は自己需要感を感じるアンテナが弱くて、求められてるのに求められてないと感じてしまう。

アンテナが弱いのは大体幼少期の親が原因なことが多い。

どれだけ頑張っても褒めてもらえなかったり、何をしても否定されたり。

そのまま大きくなったので、自分が必要とされるには、突出した能力が必要だと思い込んでいる。

突出しなくても需要あるのにね。

その、世間との考え方のズレ、心の歪みを認知の歪みと言うらしいんだけど、これは、一朝一夕で治るものではないらしい。

だから、心の歪みがあるよって自分で分かった上で、過剰なまでに自分を褒めてあげるしか無いわけ。

自分で調整するしかない。

親のせいだけど、親のせいにしても何も解決しないし進まないので。

自分の子供は歪まないようにしてあげて。


後者の需要が無い人たちはどうすればいいか。

実際、そういう人たちも生きてたら全く需要が無いわけでも無い。

誰かの為になっている部分も勿論ある。

でも人より極端に需要が無いから、自己需要感へのアンテナがバリバリに立ってないと死にたくなるわけ。

親が何しても褒めて、何しても肯定して、そうやって育たなかった障害者は、一生、生きることが辛い。

誰にも必要とされていないと感じながら生きることは死ぬより辛い。

マジで。


だけどもう、どうしようもないから、努力し続けることで、需要のある自分にすこしでも近づこうと思うしかないわけ。

何者かになれるはずないのに馬鹿みたいに努力する姿を世間様に見せること自体に、人を元気にする需要があると思い込んで生きていくしかない。


でも、やっぱり綺麗事で。

障害者が生きてて自己肯定感自己需要感得られる機会ある?

淘汰としてハブられてるわけで、人間社会で不要だから嫌われてるわけで、健全な個体を残そうとするのが社会的生物の自然な在り方で、イジメは無くならないし、虐められた人間は劣等遺伝子を持っているのでよってたかって去勢されるべきだ。

本来なら殺されても仕方ない人間に同情する人間の方が不自然だ。

私を早く殺せ。