身体の弱い人間は、限界を超えようという話。
私は昔から身体が弱かった。
朝礼は頻繁に倒れるし、集団下校は腹痛で立ち上がれず先行ってもらうことが多かった。
よく熱を出したが、38.5度以下を親は熱と認めず、学校に行った。
学校で高熱がバレると親を呼ばなければならなかったので、気力でなんとか「大丈夫です」と繰り返した。
田舎の山の上の学校で、家から学校までは、2.5キロあり、小学生が歩いて45分〜1時間かかった。
帰り道は意識が朦朧としていたが、そんな時は、「あと電柱1本分だけ歩こう」「あと100歩だけ歩こう」と、なんとか家に辿り着いた。
身体が弱いというのは、常に限界と向かい合えるということだ。ある種、身体が弱いものの特権だ。
勉強していても、座っていると頭がぼーっとする。だからベットで教科書を読んで、問題解く時だけ机に向かった。
問題解き終わるまで、あと一ページだけ、頑張って解こう、もうあと一問、と勉強していた。
高校に入り、陸上部に入った。
練習ではすぐバテた。
でも、そこで初めて人から受け入れられた。
1本目からバテても、誰より遅くても、なんとかギリギリで限界を超えて練習に喰らいつく姿勢が評価されて、人に受け入れられた。
足が痛いからと練習に参加しない人が居る横で、肉離れして泣きそうでも歯を食いしばって走った。
あぁ、身体が弱くても頑張ってる姿は人に受け入れられるんだと知った。
足を引き摺れば引き摺るほど信頼が得られて、初めての成功体験を得た。
そして、陸上は私に少しの体力をつけてくれて、日常生活で倒れることがほとんど無くなった。
その時の後遺症で、今でも膝が痛むことが多いが、後悔はして居ない。
大人になって、スポーツを辞め、また色んなところで倒れるようになった。
倒れたとき、受け入れられなかった。
設計士をしていたが、倒れるからと足場には登れず、現場にもほとんど行かせて貰えず、色んな仕事を任せて貰えなくなった。
頑張ろうとは思って居たが、結局表面的なもので本当に頑張ってはいなかったのがバレていた。
私が頑張ったところでもっと評価されたい人が居るし、私は評価されなくていいから、とりあえず迷惑かけないように…。
と思って仕事して居て、そういう姿勢がバレて居た。
結局、身体が弱い人の生き方は、「無理しない範囲で迷惑かけないように頑張る」ではなくて「限界よりあと少し、もう少し、倒れても倒れても、もっと頑張る」というのが良いのだろう。
頑張ることは、人を蹴落とすことには繋がらない。
私は私で私のために頑張るのであって、誰かのために頑張っているわけではないから。
あと少し頑張るだけ。あと少し生きてみよう。今日までは頑張ってみよう。
お腹が痛くても、吐き気がしても、頭がぼーっとしても、起き上がれなくたって、それでも頑張ることに身体が弱い人の美学がある。
そうやって、一日ずつ、限界を超えていこう。