ゆかり徒然日記

鬱病から引きこもりにランクアップしたアラサーのブログ。

とってもいっぱい愛されたい

食物だけ与えられ愛を与えられない赤子はやがて死ぬらしい。


愛は脳内の化学反応だ。ほとんどの人にとって、愛されることは脳内で強い快に変換されるようだ。また、愛すると愛が返ってくることを学習した個体は、人を愛するようになる。パブロフの犬と同じだ。


愛情を与えられない赤子は生命存続に必要なホルモンが出ないのだろうし、赤子の死も化学反応だ。


愛も化学反応だが、そもそも人間に自己決定権は無く、自分で判断・行動していると思っているものは単なる経験からの確率論でしかない。人間には自己決定権があるようで全くない。全て経験と遺伝子からの確率である。社会学の本で読んだし、体感として正しいと思う。


だから、親の愛も、子の愛も、犬の愛も、愛されても憎まれても、等しく化学現象だ。私が貴方が、彼が彼女が、誰を好きでも嫌いでも全部に意味はない。


たとえ貴方が誰からも愛されない人間でも、それも全部貴方の辿った軌跡からくる偶発的な結果で、悪いことでも良いことでもない。


殺人が起きようがウクライナで人が死のうがコロナが人為だろうが自然発生だろうが、全てコップの氷が溶けるのと等しいただの現象だ。


人は死んだ瞬間人でなくなり、物質と概念に分かれる。物質も概念も、宇宙が滅びるとき共に滅びる。全ては無になるし善も悪もない。


どうせ滅びゆく私たちである。

全ての人間は自分の快を最大化することのみに専念するのが気持ち良い。誰かが他人を不快にすることで快を最大化できるならその方向が正解だと思う。

世界全体の快を最大化することが正義だと勘違いすると気持ちが悪い。それで自分の快が最大化するのなら良いが、大抵知らないうちに正義を自分や他人に押し付け自分の不快にまで繋がるからだ。自分の不快を忘れて世界を見ると自分含め身の回りの人間が全員少しずつ不快になる。自己犠牲は他人にとっても自分にとっても少し不快だから。


多くの人と同じく、私にとって最も強い快は愛だと感じている。

だから私が最大限に幸せになることは、人生で"感じられる"愛の総量が最大化することと同義だ。強く愛を感じられる場所に身を置いたり、そこで末永く愛してもらえる人間になり、愛に対するセンサーを鍛えることが即ち幸せに直結する。


友情でも恋愛でも、不快な場所や感じられる愛の総量の最大化ができない場所に固執せず、時には損切りをし、愛の最大化の為に、愛を与えてくれる相手の快の総量の最大化にも一役買う必要があるなと思う。


何を言ってるのかわからんな。

ともかく、愛してくれていないと感じさせる男は切れ、株と賭け事は勝ってるうちに辞めろ。